コルカタ
「インド」をイメージした時に頭に浮かぶもの。
「カオス」「汚い」「ガンジス川」「タージマハル」などなどが挙げられると思います。
が、僕の中では「マザーテレサ」がありました。
誰もが知っているであろうマザーテレサ。彼女が生前活動を行っていた場所は、ここインドのコルカタなんです。
今は亡きマザーテレサが、貧しい人々の為や体の不自由な人の為に尽くし、今も多くの人がマザーが創設した各所のマザーハウスを訪れボランティア活動をしています。今回ここを訪れたのは同様にボランティアに参加するためでした。
マザーテレサが亡くなってからすでに18年経っているが、マザーテレサの意思を受け継いだ修道女が各所のマザーハウスを継続させ、世界各国からボランティアを目的にこのマザーハウスに絶えず集まってきています。
今回僕が交流しただけで、
日本、韓国、中国、台湾、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、インド。
彼女の活動は世界中から認められていて、今もなお彼女の意思は生き続けていました。
マザーハウスといっても、施設はコルカタ内に7カ所もあり、体の状態によって収容施設が分かれていました。
その中で今回僕が希望したのは、
Khalighat カーリーガート。 通称「死を待つ人の家」
と、Prem Dam プレム・ダン
の2カ所。どちらも重度の身体、精神障害を持つ人が住んでいる施設。
活動時間としては、
7時全員集合。そこで朝食を取り、各自各所へ移動。
午前中は、8時半頃開始〜12時半頃終了。各自解散。
午後は、3時〜5時頃まで。各自集合、各自解散。
僕は午前中をプレムダン、午後をカーリーガートに分けて行っていました。
活動内容としては、
・衣類の洗濯
・排泄物の処理
・屎尿便の処理及び配布
・入浴の補助
・トイレの補助
・食事の配膳と片付け洗い
・食事の補助
・移動の補助
・足や手などのマッサージ
・施設内の清掃
などなど。
基本的に誰かに指示されるのではなく、患者の要望に答えたり、自らが作業を見つけては答えていく。
素人がいきなり介護系のサポートを任され、どのように対処すればいいのか困る時が多々あったが、先に参加している先輩ボランティアに教えてもらいながら、一緒に参加しているボランティアの人たちと協力しながら、
計5日間、ここに住んでいる人たちのためにがむしゃらに動いた。
正直な所、
本当にきつかった。
肉体的ではない。精神的に。
初日のショックは今でも忘れないです。
恥ずかしながら、介護系のボランティアなんて初めてで、
身体的、精神的知的、またはその両方の障害を持つ人に対して、1対1で直接的に世話をするというのは初めてだった。
計5日間。
たったの5日間じゃ何も分からなかった。
もちろん介護の仕方や日々の作業は、日が経つにつれて慣れてくるし要領も分かってくる。
でもそんなことじゃなくて、
ここに住んでいる障害を持つ人に対して
どんな顔で接すればいいのか
笑顔でいればいいのか
可哀想にと慈悲の顔をすればいいのか
どんな言葉をかけてあげればいいのか
中には当然しゃべれない人や知的障害によってこちらの言葉も理解できない人もいる。
そんな人にも、元気ですか?調子はどうですか?って
返答のない一方的な言葉でもかけるべきなのか
目の見えない人もいる。自分1人じゃ歩けない人もいる。食事もサポートしないと食べれない人もいる。トイレや入浴だって。
彼らの要望がなんなのか分からない時が何度もあった。
ヒンドゥー語でもなんでも、しゃべれる人やジェスチャーが出来る人は、なにをしてあげればいいのか分かる。
けど中には、なにかを僕のほうに訴えかけてはくるが、本当にどうすればいいのか分からないことも。そもそも知的障害のある人、その行動に意味がなかったのかもしれない。
その判断すら分からない。
そんな時が一番辛かった。
食器の片付けをすればいいのなら洗えばいいだけ。
あっちへ行きたいと要望されれば歩行のサポートをすればいいだけ。
でも、文字通り目の前にいながらも、その人のためになにもしてあげられない自分がいた。
もちろん僕が悪いわけでもないし、仕方がないことなのは分かる。
ただ、どこにも持っていきようのない感情に押しつぶされそうになって、今すぐにでもこのボランティアを辞めたいとも思った。
この施設に住んでいる人たちは、毎日同じような時間に起き、毎日同じ時間に食事をし、毎日同じ時間にトイレや入浴を済ませ、薬を飲み、毎日同じような生活を繰り返す。
特に知的障害を持つ人は、毎日何を考えているのか、考えるという概念はないのか、
辛いんだろうか、この人は5年後、10年後どんな生活をしているのか、今と全く変わらない状況なんだろうか、なんのために生きているんだろうか、必死に生きようと生きているんだろうか、
生きたいんだろうか。
午後参加していた施設、カーリーガート。通称「死を待つ人の家」
言葉が不謹慎かもしれないけど、、、
文字通り、死を待ちながら、ただただ同じ日々を繰り返しているという印象を受けた。
移動日までボランティアをしようと決め、5日間という日程になったが、
初日の終わり、もう辞めようかと思ったし、それでも続ければなにかが変わるんじゃないかって、とにかく決めた日まで続けたけど、
よくわからないまま終わった。
心の整理がつかないまま僕はこの場所を去った。
この経験はいい経験だったのか。
ただの365日の内の5日間ということだけなのか。
世界中から集まった様々な国の人たちと交流もできたし、その人たちはこのボランティアの為に来ているという事実と、それを生んだマザーテレサの偉大さを身をもって体感もした。
1人×5日間という小さな時間だけれでも、その時間だけでも助かった人はいると思う。
このボランティアが偽善だろうと、ちょっとした興味で参加したことだろうと、それは間違いなく事実。
ボランティアに悪いなんて決してない。
僕らは誰でも誰かの為に貢献できるということ。
そんな言葉で僕はこの出来事を心の奥底にしまう事にします。
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この前、福祉推進センターの人と話す機会があったのですが、面白いことが聞けましたよ!
ボランティアの4原則
1.自主性・主体性
他者から強制されたり、義務として行ったりするものではなく、
「個人の自由意思で行う活動」
2.社会性・連帯性
誰もが心豊かに生き生きと暮らしていけるように
「お互いを尊重し支え合い、学びながら進めていく活動」
3.無償性・無給性
金銭的な報酬を期待して行うのではなく、活動を通して得られる出会いや発見、感動、喜びなど
「精神的な報酬を原動力とする活動」
4.創造性・開拓性・先駆性
今、社会で何が求められているのかを考え、協力したり、工夫したりしながら
「より良い社会を作っていく活動」
―――――――――――――
だそうです。
ボランティア先での性格の不一致に関する相談や、身近な場所でのボランティアは顔が見えすぎていやなので別の地域のボランティアを紹介してほしいなどの相談もあるみたいですよ。
以下、私の考え(聞いてないと言われればそれまでだが、気にしないこととする。)
行政機関では平等だの企画書・許可だのですぐに動けない、または手の届かない範囲の問題を、リアルタイムでカバーすることができる。ボランティアは自由。興味さえあれば、すぐに飛び込める。
そして、関わった人たちとのネットワークを構成することができる。輪は広がっていく。
その場で得られるものは精神的・知的経験であるが、その時できたネットワークによってその後、思いがけないところで自身の力や助けになることがある。
やりたいと思えばやればいい。やりたくなければやらなくていい。
だから、今回祐矢さんが「このボランティア辞めたい」と思ったことは決して不思議なことでも悪いことではありません。
(勝手に断言しましたが、やっぱり気にしないこととする。)
人それぞれ興味や価値感が異なるのですから、ごく自然なことだと思います。
ここはひとつ、自己理解・適性把握のひとつになったと、ポジティブに考えてみてはいかがでしょうか!
「わあっっっ!!!」ってかんじで。
5日間の祐矢さんの行動が、施設の力になったことは紛れもない事実ですし、ねっ。
一人ひとりの力は短期的で小さなものだったとしても、それを色々な人が引き継いでいけば・・・。(莫大な力になる的な事を言いたかったが、言葉にすると野暮ったくなってしまう。これ以上思い浮かばなかったのであえて書かないこととした。恥ずかしいので一応、弁明を付け加えておく。)
それにしても、マザー・テレサのキャパシティの広さには驚かされますね。
「わぁっっっ!!!」ってかんじで。
マザーテレサブラック有力説などもありますが、どちらにせよ、結果として貧困問題に取り組む活動家の励みになっていることは事実なので、偽善も何も関係無いことが見て取れます。
追伸:前回のコメントに対する返信、真剣に考えてくださり、ありがとうございます。励みになりました!
ではまた^^
いつも情報付きの真剣なコメントありがとう!^^
(聞いてないけど(笑))他人の意見が聞けると腑に落ちたりしっくりできたりするから本当にタメになるよ^^
ネガティブに考えてるわけではないけど、とりあえず、わあっっって!!って感じにしとくね。(笑)
しかし、ハタチでなんでそんなしっかりした意見が言えるのか不思議でしょうがない。。。
いい学生生活送ってるね!
感心します。^^
(追伸:こんな返答でごめん。。。)